興国五年(1344)四月初旬。遠江国千浜。晴れてはいるが寒い日であり、さらに風が猛烈に強い。そのため体感温度は案外低い。にもかかわらず、雲水は薄手の着衣しか着ていなかった。浜から内陸に約一里ほど入った金剛山貞永寺の僧となった目西である。ひたすら細く粒の揃ったきれいな砂を手で握り、拳の小指の下の隙間から少しずつ砂を落とし風に舞わせていた。目西はそんなことを朝から何度となく繰り返しているのである。あきもせずひたすらに同じことを繰り返している。目西は手を止めて、海岸線のはるかかなたの西を望んだ。

 件の客人が一品中務卿宗良親王であることをほぼ確信している。そして彼が足利左兵衛督直義の意向を汲んだであろう北朝方懽子内親王(宣政門院懽子)と密議を行ったのだ。これら一連のことを鎮守府将軍北畠顕信に報告しなければならない。そのために、目西は引継、鷹鷲を自分の元に置いている。報告の密書を書きそれを百万塔に入れ鷹鷲に託すつもりだからである。しかし、厳密には客人が信濃宮である証拠は未だ掴めていない。今後、その確証を得る必要がある。鷹鷲に託すのはそれから
である。また目西は百万塔での情報運搬に関して案じていることがあった。篠島に居た時からずっと案じていたこと。今の百万塔は敵方の侵襲があった場合その事実を残せない。この不備は直さねばならない。むしろ敵方というより問題なのは百万塔の開け方を知っている伊賀の忍びである。開けて中の文書をすり替え元に戻すことが最も問題となる。今回の場合、それに該当するのは鷹鷲その人。

目西は貞永寺で百万塔の相輪部の改造に執りかかった。相輪部をほぼ中央部から二に切断しそれぞれ中を刳り貫いた。さらに塔部側となる相輪部の底に刳り貫き部との貫通孔を設けた。刳り貫いた中に千浜のきれいな砂を封入。切断部の刳り貫き内部に仕掛けとなる細木をはめ込み、この細木を介して再び相輪部を一つに結合し外見上そこが分離されることを気付かれないように細工した。実は細木は貫通孔を塞いでいて砂が塔部に移ることを防いでいる。目西はこれらの改造を施すのに五日間要した。
この改造により百万塔はある程度侵襲の有無が分かるようなった筈である。一度百万塔を開封すると中の砂が抜けてしまい、通常の作業では砂を元に戻すことができないからである。つまり、砂の抜けた百万塔内にある密書は途中で誰かによって侵襲を受けたことを示す。
目西は自分でこれらの動作を一度試してみようと思い立った。そこで塔部にこの際、何か実際の密書を入れてみようと思った。そこで螺鈿蓋の箱の中に大切に保管していた密書、つまり篠島で北畠顕信が記した密書、すなわち役目を終え千賀地保親から百万塔ごと返却された密書、それを再び塔部内に戻した。そして相輪部で蓋をした。目西は現実的実験を試みるため直ぐには開封せず数日後に開封をすることにした。

 改造の間、貞永寺の南溟和尚の元に隣国駿河の臨済宗大寺院である巨鼇(こごう)山清見興国禅寺(現在も巨鼇山清見興国禅寺=清見寺:静岡県静岡市清水区)の住持である玉峯智琢禅師からある噂話が入った。噂話とは高草山法華寺(現在も高草山法華寺:静岡県焼津市花沢町)という天台宗の古刹が駿河にあるのだが、その古刹に紫袈裟を着た高僧が滞在していると言うものであった。僧侶にとって僧の位階とは非常に気になるものらしい。なかでも着衣するのに勅許の必要な紫袈裟をきている僧などのことは宗派を超えて気になるらしい。僧都や大僧正に誰が着いたかなどから、往生してから送られた諡はどのようなものだったのか、国師号が贈られたのか否かなども僧侶のネットワークを介して始終話題に上るのである。
 実は駿河国の諸国寺塔毎国各一所の寺は清見寺の比較的近くにある承元寺である。しかしこの清見寺、幸い足利尊氏卿の崇敬があり諸国寺塔毎国各一所の寺ではなく塔を建立している。翌年の興国六年から正式に利生塔と称せられるようになった塔のことである。(現在はない)この清見寺が諸国寺塔毎国各一所の寺にならず承元寺がなった事情は、畳秀山開善寺がならず泰平山案国寺がなったのと同じ理由であろう。
 紫袈裟の高僧の話は日を経ずして目西と鷹鷲にも伝わった。二人ともそれが件の客人であるに違いないと感じた。目西は直ぐさま出発し客人を追跡すると言った。鷹鷲は目西をここまで送り届けている故、本来の仕事はもう終了していると考えていた。鷹鷲にとってはあの客人が信濃宮であろうがなかろうがもうどうでも良いことであった。それよりも早く目西から遠ざかりたかった。しかし、目西に逆らうことはできない。いやいやながら鷹鷲は目西の伴をすることとした。
 そこで二人は南溟和尚に旅立ちを伝え出立した。夢想疎石からの書状の効果はここでも絶大で自由出立が許された。

* * *

 件の客人が滞在していると思しき高草山法華寺は、東海道の難所の一つと知られる宇津の山越え(現在の宇津ノ谷峠)の手前で岡部川に沿って右へ入った山道をさらに一里ほどいった所にある(現在の日本坂)。この寺は天台宗の寺なので雲水姿では如何にもまずいと、例によって二人は、結袈裟、手甲、法螺貝を身につけ修験者、所謂山伏に変装して歩いた。本人達が知ってか知らぬか、伊勢物語以降の多くの紀行文ではこの宇津界隈は山伏の頻出地帯となっていた。
 二人が法華寺にたどり着いたのは夕暮れ時であった。偶然、山門をくぐってすぐの所に和尚がいたので鷹鷲が尋ねた。
「紫の袈裟を着たさる高僧がこちらにご滞在とお聞き申した」
「一昨日、出立なさった」
「どちらへ」
「さて、ここにお着きになった当初は甲斐に向かう途中と言っておったが。結局、どこへ行くとも言わずに出立されたでな」 
 鷹鷲と目西はあっと言う間に法華寺を後にし、東海道に戻った。甲斐と言われても広い。時間的にも既に二日が経過してしまっている。追跡行は不可能に近い。何のため甲斐に向かうのかも不明では手がかりもない。宿駅毎に紫袈裟の高僧を見かけたかと聞き歩くしかなかった。
 夜通し歩き宇津の山を越え、清見寺のある清見が関をも過ぎ富士川の手前まで着いた。ここで、鷹鷲は悩んだ。実は駿河から甲斐に向かう路は四道ある。最も西側の道は富士川伝いに身延、市川大門を経て甲府に到る河内路あるいは別名駿州往還(ほぼ現在の国道52号線)である。次は東海道吉原(現在の富士宮市吉原)から上井出(現在の静岡県富士宮市上井出)本栖、精進、右左口(うばぐち;現在の甲府市中道町右左口峠)を経て甲府に到る中道往還あるいは別名右左口往還。そしてこの中道往還の途中の上井出から分岐して富士山西北麓の原野を越え大石(現在の富士河口湖町大石)、大石峠を越え小石和(現在の石和町)を経て甲府に到る若彦路。最も東は東海道足柄路の足柄から現在の須走、山中湖、河口湖、御坂峠、黒駒、石和を経て甲府に到る鎌倉街道あるいは別名御坂路である。
 果たして件の客人はこれら四道のいずれから甲斐に向かったのであろうか。ここから駿州往還で甲斐に向かったのであろうか。鷹鷲は悩んだ。そして目西に尋ねた。
「あな」

 実は目西は件の客が天台宗の僧侶を装っていることに気がつき始めていた。しかるに目西の考えでは、他宗派に対する攻撃性の強い日蓮信徒の聖地である身延を通るとは考えられないと言う。そこで二人はここをパスした。
 客人の情報が掴めない。二人は焦燥感に駆られ先を急いだ。夜通し歩き疲労がかなり酷くなった。富士川を船で渡り次の甲斐への追分である吉原に着きやっと休みを取った。
 短い睡眠の後、翌早朝、鷹鷲は再び目西に問うた。ここ中道往還から甲斐に行くべきか。
「あや」
 この中道往還は甲斐への最短ルートである。ではここを過ぎ次の鎌倉街道を件の客人は行くのかどうか。目西の考えでは、わざわざ客人はそこまで遠回りしないであろうし、足柄のある相模つまり鎌倉は尊氏の嫡男足利義詮の支配地域であり敬遠する筈。と言うことで確たる情報もないなか二人は中道往還へと入っていった。 

* * *

 一方、件の客人は実は東海道を東に進んだ。江戸時代になると東海道と言えば箱根越えだが、この頃はまだ車返宿(現在の沼津市三枚橋町付近)で足柄路と箱根路に分かれていた。そして甲斐に抜ける鎌倉街道へは車返しから足柄へ抜けて入る。

 駿河の国より信濃へこえける時、浮島原
(現在の沼津市原の浮島が原)をすぎて車返といふ所より甲斐国にいりて信濃路へかかり侍るが、さながら富士のふもとをゆきめぐりけるに、山のすがたいづかたよりもたぐひなくみえければ

        北になし 南になして けふいくか 
                富士の麓を めぐりきぬらん 
<新葉集
(富士山をある時は北に仰ぎ、ある時は南に仰ぎ、今日まで幾日その麓を巡り歩いたことであろう)

 つまり件の客人は目西の推論に反し鎌倉街道経由で甲斐を目指したのである。目西としては珍しく誤った推論をした。それは致命的なミスであった。

* * *

 何とか客人に追いつきたい。できれば追い越して、待ち伏せるぐらいの余裕が欲しかった。そう思い鷹鷲は馬を調達したかった。しかしこの往還道の宿駅には馬疋が少なく調達できる所がなかった。焦燥感が疲労感を勝り、それが足を動かし続けて
いた。上井出には若彦路と中道往還の追分がある。ここでよく考えないまま、目西は単に甲斐への近道を選んだ。つまりそれは中道往還である。

 上井出、人穴(富士宮市人穴=朝霧高原あたり)、本栖、どの宿にも客人の消息はなかった。鷹鷲は本栖に至り目西の説に疑問を感じ始めた。そして目西にこの辺りで休息をと言ったが、例によって目西は聞かなかった。客人に追いつかねばという一心なのであろうか。がしかし、目西の疲労は鷹鷲以上である。それは鷹鷲にも分かった。こやつ本当に大丈夫なのか。
 精進湖でも消息は掴めず。二人は落胆する。日も暮れ始めている。これ以上の強行軍は非常に危険である。ましてこの先は峠。一昨日も夜通し歩き詰めている。いかに忍びとて限界というものがある。しかし目西は言うことを聞かない。元より気が狂っている。目西は唇の横に白い泡を吹いていた。
 右左口に達した時はすでに夜中であった。二人とも刻一刻と歩みが落ちていたのだ。四月とは言えここも峠であり雪こそないが酷く寒かった。

 右左口では夜間と言うこともあり人に客人の情報を確認することもできなかった。まず今晩はここでと鷹鷲が思ったのだが、目西が先に進み始めた。半ば意識が朦朧としているようである。鷹鷲は疲労と目西への不信からか目西を止める気力が生じなかった。

* * *

 翌朝、鷹鷲は目西の後を追い始めた。辺りの空気は冷たい。周囲の木々には霧氷ができている。右左口から下りはじめて半里。それなりの山門のある寺が目に入った。よく見ると山門の傍らに人が寝ている。鷹鷲はもしやと思った。小走りに山門に近づいた。山門の上には寺号として心経寺とある。実はこの寺、この翌年から悟動山安国寺になる運命。つまり甲斐の安国寺なのである。
 寝ているのはやはり目西であった。こんなところで野宿をしていたのか。今朝方はかなり冷え込んだが何もかけずに寝たのかとやや驚いた。螺鈿蓋の箱の中に普段大切に入れている半紙に目西が記した地図がいくつか出しっぱなしになっていた。鷹鷲はその地図を見た。信濃大河原と遠江貞永寺及びこの地の位置関係を目西は気にしていたようだ。どうやらここは大河原の真東に当たるらしい。
「おい、目西殿、朝だ」
うつ伏せで寝ている目西に声をかけたが起きなかった。そこで鷹鷲は目西の体を揺すってみた。やはり起きない。えっ、体が冷たい。無理矢理体を仰向けにした。唇には色がなく目は開いたままであった。鷹鷲は脈や心音を調べた。鷹鷲の顔が一瞬だが無念で歪んだ。鷹鷲は呟いた。
「すまなかったな。鎮守府将軍殿には・・・・・・・」
鷹鷲は雇い主に報告すべきか、このまま逃げてしまうか葛藤した。
 螺鈿蓋の箱の中に出しっぱなしの地図を丁寧にしまった。そして、鷹鷲はその箱を手にした。一方、百万塔は目西とともにそのまま放置された。
 鷹鷲は朝日の中、目西から去って行った。結論が出せぬまま。


        
ランキングバナー


中道往還地図






Copyright(c) 2014. Gigagulin (偽我愚林)
HOME    NOVEL    BEER    LINK    MIKADOI 38   中道往還地図
第二部目次 (甲府・ 東山道編)

    
  

    
  
  
  

  

^