4月8日、土曜日。今日も快晴であった。この日は講義もないので紀雄は新幹線で向ヶ丘遊園まで来ていた。何とか芳子の料理した昼食に間に合った。智も未だ講義がスタートしていないので今日は休みであった。久しぶりに家族三人で昼食を食べた。 昼食の際、智から紀雄と芳子は意外な事を聞いて驚いた。今日、鎌倉に来る岩井美佐子と材木座にある浄土宗大本山の天照山光明寺で会う約束をしたと言うのである。時刻は夕方16:00であると言う。智が他人と約束をすることなどかつて聞いたことがない。智も人の子、成長するものであると紀雄も芳子も感心した。ただ、相手は体調不良で療養するために帰省するという人妻である。しかも今日はその帰省の当日。通常なら相手にとってはかなり迷惑な話であるはずだ。その点に紀雄は不安を
感じた。 智は江ノ電の由比ガ浜駅まで乗り換え時刻まで既に調べている。ところが、智はそれらの電車の乗り方が分からないので鎌倉のその寺まで付き添いして欲しいと言うことのようだ。やれやれ。芳子は留守番をするということで、結局、紀雄が引率と言うことになった。

 余裕を見てアパートを13:50に出発した。向ヶ丘遊園から藤沢行きの急行に乗って小一時間で藤沢に到着。智は言うに及ばず紀雄も実はこの辺りには全く土地感がなかった。案の定、藤沢で江ノ電に乗り換えるのだが、江ノ電の乗り場が二人ともよく分からなかった。智が駅員に乗り場を尋ねたのには驚いた。成長しているなと再び紀雄は思った。これであれば引率など無用じゃないか。
 江ノ電は学生や観光客も多く結構混んでいた。三両編成の新型車量ではあるが普通の電車よりかなり小ぶりで、ために混むのであろう。特に江ノ島を過ぎてからはすし詰め状態である。一部路面軌道区間があり紀雄は妙にノスタルジックな旅情に慕った。逆に智は路面区間で軌道上に車がいるのを見て異様に興奮していた。多分、進路上に自動車がいて憤慨しているのだ。今にも拳を挙げそうであった。いや、ちょっと前の智なら、この満員状態も手伝ってもう叫びながら窓を拳で叩いていたに違いない。でも今、彼はそれを堪える様に自分で自分をコントロールしているようである。
 由比ガ浜駅に着いたのは15:20頃である。駅から出て由比ガ浜の海岸の方には行かずに真っ直ぐ進んだ。和田塚駅入口という小さな交差点を渡るとき江ノ電の和田塚駅が見えた。もしかするとここまでは和田塚駅から来たほうが近かったのでは。和田塚駅は江ノ電の終点である鎌倉の一つ手前の駅である。紀雄としては智の指示に全て従っているだけなので如何ともし難い。さらに若宮大路の海岸橋という交差点を横断し、人通りも車通りも比較的少ない路地を進んだ。時々、智が予めプリントアウトしておいた光明寺へのアクセスマップを確認しながらである。九品寺前で右折。道なりに進むこと数十メートル。幾つか辻を曲がったであろうか。光明寺の巨大な山門が見えた。時刻は15:35、未だ時間がある。紀雄と智は境内を歩いて色々見学してみた。
 どことなく建築物の木が白茶けて見える。鎌倉の中でもあまり著名な寺ではない。まして全国的には無名であると言ってよい。しかしこの寺の山門は関東一大きいらしい。そして本堂は重要文化財とある。これまた鎌倉一大きい本堂だとか。境内の中に遊具のある公園もあって、幼稚園もある。実に堂々とした伽藍の寺である。浄土式庭園もある。枯山水もある。これほどの寺なのに、鎌倉の他の寺に較べて圧倒的に観光客が少ない。ほぼ皆無と言って良い。回りの町内も観光客相手の店はない。むしろ町内では海岸のウインドサーファー向けのショップが散見される。野良猫数匹が寺の山門のあたりでのんびりと日向ぼっこをしている。街の生活に大伽藍が溶け込んでいる。この無理のない自然な感じ。どことなく府中の高安寺も同じ雰囲気である気がした。それは、鎌倉の寺と聞いて観光客の多い円覚寺や建長寺を連想していた紀雄には有り難いことであった。

 山門のほうから、ジーンズ姿の岩井美佐子が現れた。さほど疲れている様子ではなく、紀雄は少し安心した。二言三言挨拶を交わした。頭痛は相変わらずするとのこと。昼前には実家に到着したとのこと。実は岩井の実家はここから百メートルほどの所にあるとのこと。結構、声は明るかった。
「明日と来週の日曜日は鎌倉祭なんですよ。八幡宮で流鏑馬があったりとか、静の舞いを奉納したりするんです。駅から八幡宮まではものすごく混むんですけど、ここら辺はさほど混まないんです」
 岩井は幼少の頃からこの寺を見て育った。本人の言ではそれで仏教美術を専攻するようになったのだとか。この伽藍こそが彼女の故郷なのだ。

 美佐子は智と紀雄を案内した。本来であれば自分の中に秘め置くべき自分の原点なのだが。晴彦は別として全くの他人である須坂親子にそれをさらけ出している。何故自分の原点でもあるここを彼らに見せようと思ったのか自分でも分からなかった。三人で本堂に行きお参りをした後、本堂に向かって右にある枯山水式の庭園の前に来た。不思議な時間が流れていく。美佐子は智を見ると理由は良く分からないのだが落ち着き頭痛が楽になった。智を知る多くの人の場合、智のことを前にすると健常人と接するのとは異なる接し方をし、消して安らぐというようなことはないのだが。眼前に広がる庭園のせいもあるのかも知れない。でも美佐子は智を前にすると素の自分を取り戻したような安らぎを感ずるのだ。 
 今度は三人で本堂に向かって左にある渡り廊下で繋がった寺の書院へと行った。ここは座りながら浄土式庭園を眺めることができる。庭園を前にして智の存在とは何かを美佐子は考えようとした。この少年の持つ天才性は、少年の父が持っている最もコアの部分だけ純粋に遺伝させたのだろうと美佐子には思えた。この少年が存在する理由・・・。もしかすると、光のあたらない歴史に光を当てること。あるいは不可解な謎を秘めた歴史を解き明かすこと。そう考えた後、少し考えが大げさすぎるかと美佐子は思った。
 智が百万塔に関する話題を話し始めた。結構大きな声で。このお寺の庭園の前でぺちゃくちゃ会話するのは少し不味い。美佐子は海岸に行こうと誘った。美佐子の誘いに智もすんなり応じた。

 材木座海岸の西側は滑川を挟んで由比ガ浜へと続き、その先には稲村ガ崎が見え、さらに先には江ノ島が見える。東側はわりと直ぐに逗子との境の山がせり出し終点である。砂の色は湘南特有の濃い灰色。黒っぽくて、いかにも汚れているように見えてしまうため綺麗とは言い難い。
 夕暮れ時である。太陽は海岸のやや右手に沈もうとしている。犬の散歩をする人。ウエットスーツを着たウインドサーファー。水上バイクを片付ける人。
 智は岩井と父に喋り始めた。北緯34度40分40秒線上にある地名。西から薬師寺、新薬師寺、元興寺。伊賀の上神戸。篠島。静岡の千浜海岸と貞永寺、つまり遠州安国寺。確率論的には偶然の一致であると言い難いものであることも智は説明した。そして智の考えでは百万塔の運搬に携わった人間はある意図を持って北緯を変えずに、と言うよりはむしろ東西のみを移動していたと考える。そしてそれは非常に特異な才能を持った誰か一個人の存在を示唆する。つまり東西間北緯同一移動は機械的計測のない時代においては優れた幾何学的及び空間的把握能力からのみなせる技だと考えざるを得ない。しかるにその特定の個人は同じ才能において本物の百万塔から図面なしで、つまり記憶のみでレプリカを作製できた可能性が示唆される。要するに百万塔のレプリカ作製者はその移動者そのものであるとの推論も智は吐露した。
 話をしている内に三人はいつの間にか滑川の河口付近まで歩いてきてしまった。紀雄はやや喉の渇きを覚えた。そこでどこか店に入らないかと提案した。そしてまた、智の説を基に百万塔に纏わるひとつのストーリーを作ってみようとも提案した。そこで三人は滑川の交差点傍のファミリーレストランに入った。無論禁煙席である。三人ともドリンクバーを注文。岩井はホットレモンティー、紀雄はカフェラテ、智はスプライトをそれぞれ持ってきた。着座すると直ぐに紀雄が切り出した。

「智が言う特定の人物を例えばX氏としようか。当然、まず考え得るのはX氏がレプリカの製作者だとすれば、X氏は少なくとも百万塔の本物を知っている必要があるよね。そうだとするとX氏は百万塔のオリジナルを保有する寺に居たか滞在経験があるはず。それを智の説と照合してみると、正にその寺って、薬師寺か新薬師寺か元興寺になると言う訳か。うん。なるほどね」
紀雄は自分で言って自分で納得していた。
「確か、新薬師寺は十大寺じゃないんじゃないかしら。単なる直感なんですけど、X氏は元興寺に居たのかなって。もしかするとX氏は南朝方に付いた僧兵じゃない
かしら」
「どうして元興寺なんですか」

「薬師寺や新薬師寺と違って元興寺は室町時代にすごく衰退したんです。だからこそ不明なことが多そうで。えーと、要するに理由はないんですけど。」
智は理由がないと言うことを理解することができなかったようだ。それでも岩井の言を尊重するためあるいは擁護するために論証を試みた。
「実は薬師寺は北緯34度40分6秒なので40秒とは厳密にはかなり異なります。だとすると、薬師寺は位置の厳密性がないと言うことになるし、また新薬師寺は十大寺ではないわけだから、元興寺が最有力です」
「それじゃX氏は元興寺に居たあるいは滞在していたことにしよう。そこでX氏は本物の百万塔を見ていたと。じゃあ次はと、どうして篠島にX氏が移ったかだが、うーん・・・」
「私は単純にX氏は北畠顕信や義良親王と共に東国遠征に出港し、難破して篠島に着いたと考えていたのですが」
「でも、そうだとすると篠島が北緯34度40分40秒上にあることに理由がつきません。X氏は元興寺を出発して真西に移動し篠島を選んだのだと考えます」
「うーん。それはそれで難しい説だなあ。でも、だとするとX氏は1338年だったけ、その年に南朝軍が東国遠征するより以前に、つまり、親王達より先に島に居たということになりそうだが、逆にX氏がむしろ後に島に来たということは考えられ
ないか」

「可能性は否定できないけど、可能性は低い」
「智さんの考えを基にストーリー作成しているのですから、やはり40分40秒線を軸にX氏は篠島に移り住んでいたか滞在していて、そこに南朝の親王が漂着したと考えるべきじゃないかしら」
「そりゃそうだ。元興寺の僧兵であるX氏は1338年秋以前に篠島に来たと。理由は40分40秒線に篠島があるから。これじゃ理由にはならないな」
「あの、僧兵というのはあくまで私の勝手な思いですので」
「僧兵というのはいい線だと思うな。X氏の職業に関するヒントのようなものって今までなかったかな」
「今までの考えでは仏師か宮大工というのがあったはず」
「うーん確かにあったな。あと内文書の宛先が伊賀だったはず。伊賀は忍者の里だから、もしかするとX氏も忍者であったと考えることでもきるのでは」
「確かにそうですね。南朝の楠木正成は透波(すっぱ)四八人衆と言う伊賀の忍者部隊を持っていたはずですので。忍者という線も有り得ますよね」
「さすがに歴史に詳しいね。僧兵や仏師よりは内文書の宛先が忍者の里であったと言う事実がある以上、忍者説は有力だと思うんだがどうかな」
「ただ、内文書を記した人物がX氏であるとは限らないですし」
「うーん。元来、救出依頼を吉野に直接出さないで忍者の里に出したのは何故
だろう」
「ええ。不思議ですね。あっそうそう。先程智さんは伊賀の上神戸も40分40秒線上と言いましたよね。もしかするとX氏は本当に忍者で百万塔のレプリカと内文章を作成後、自分で篠島から伊賀まで移動したとか。救出するための文章を誰かが送り届けなきゃならないのだから。忍者であれば・・・・・」

 三人は暫く沈黙した。智は何も言わずに席を立ちドリンクバーで再びスプライトをなみなみと注いで戻ってきた。レストランの外はもう暗くなっていた。紀雄が岩井に時間は大丈夫かと心配して尋ねたところ、岩井は今の自分には時間の制約がないのだと言って笑った。それは半ば真実である。それでも指摘された岩井は実家に携帯で遅くなるとメールを出した。すっかり議論に熱中し頭痛が全くない自分にふと気が
ついた。

「忍者。忍者と言うことは実はX氏の出身地がそもそも伊賀の上神戸であった
のでは」
再び、紀雄が話題を戻した。
「X氏の出生が伊賀の上神戸でも確かに40分40秒線の説明はつきますよね」

「現実はどうあれ、X氏の出生を忍者とするほうがストーリー展開上は無理がなさそうで楽だね。多分」
先程から、智は口を噤んでいる。しばしの間隔をあけてまた紀雄が喋った。
「ここまでまとめると、えっと、伊賀の上神戸出身で忍者のX氏が、上神戸の真西にある元興寺に滞在している時にオリジナルの百万塔を見て形状を記憶した。X氏はかなり特異な才能があって、真西あるいは真東への移動ができる。それも意図的に。その上、智と同様、写真的な記憶ができ図面なく形状を再現できる。その後、少なくとも1338年秋以前に上神戸や元興寺の真東に当たる篠島に移った」

「1338年9月に義良親王と北畠顕信が篠島に漂着。島への救出要請を和歌で暗号化した上、さらに先生のご専門のステガノグラフで島名を秘匿した内文書を作成。書いたのがX氏かどうかは不明。この内文書を百万塔そっくりのレプリカに入れた。その百万塔のレプリカはX氏が作製。しかも、蓋となる相輪部と本体となる塔身部で異なる樹種を用いるロック機構を採用。相輪部は知多師崎のウバメガシ。伐採年はずばり1338年。塔身部は檜。その檜は元々1282年に伊勢神宮の御用材として伐採されたもの。次の遷宮で不要となったこの用材はお下がりとして篠島の神社へ。さらに20年後、島に次の伊勢神宮のお下がりが届き、1282年の檜は自由に使用できるようになりX氏によって百万塔の塔身部となった。ですよね」
「よく年号まで覚えていますね」
「ええ。最も重要な手がかりでしたから。でも、ここで謎なのは篠島でレプリカが作製されながらその相輪部の中には千浜の砂が入っていたこと」
「うーん。もしかすると、X氏は篠島に移る前に、それこそ40分40秒線上にある遠州の貞永寺とか言う寺に居たのかもしれない。そこで近くの千浜の砂を得て、理由は不明だが篠島までそれを持っていったとか」
「ちょっと整理すると元興寺は絶対的に篠島より前でなければおかしい。それ以外の地名に関しては絶対的にどこがどこより先だ後だと議論できるほどのエビデンスやロジックはない」
それまで沈黙していた智が、スプライトの残りを啜り、口を開いた。
「貞永寺は時間的には後でなくてはおかしい」
「えっ、どうして」
「本当の最後は甲斐安国寺。安国寺リンクを考えるのであれ空間的にも時間的にも甲斐安国寺の手前にくるのが貞永寺でなくては」
「だとすると、なんでレプリカの中に千浜の砂が」
「簡単なこと。つまりX氏は貞永寺に居るときに相輪部の中を刳り貫き千浜の砂を入れた」
「なんのためにですか」
「実は、一晩その理由を考えていたんです。得た結論はあくまで推論ですが、X氏は百万塔レプリカでの密書の輸送中、宛先人以外で誰かが途中で中身を開いた、つまり蓋を開けたことを分かるようにするためではないかと。篠島で作製されたときには未だその開封表示機能は存在していなかった。しかしX氏は、秘密文書の輸送装置としての完璧性を求めた。そこで後々にその改造を貞永寺で施した」
「ほほう。タンパープルーフ、要するに非侵襲の保証というわけか」
「えっなんですか、その何とかプルーフだの侵襲の保証とか言うのは」
「えーと、例えば、お菓子とか薬とかの包装で一旦開封すると開封、開封って字が出てくるやつ知りませんか。要するに一旦開封したら、開封したことが一目で分かるように修復できないようなマークを残すことです。英語ではタンパープルーフ。実は私の専門の電子ステガノグラフでも、途中で誰かが中身を開封してしまったら、無論ネットワーク上とか電子メディアの中の話ですけど、それを示す証拠を残す仕掛けを組み込むんです」
「へー、それをX氏は南北朝時代に」
「考え方自身はもっともっと古い時代からあったのだと思いますが」
再び、智がテーブルを離れドリンクバーに立った。今度は紀雄も岩井もお替りを入れに行った。智は飽きもせずまたスプライトである。紀雄はウーロン茶、岩井はコーラである。また紀雄が仕切りをした。
「じゃ次にと、篠島を出たレプリカはどこに。宛先である伊賀上神戸を経由して吉野かな」
「私も伊賀上神戸経由で吉野に着いたのだと思います」
「なぜですか」
この前、この時代の歴史を調べたとき、吉野から日野大僧正頼意を勅旨として篠島に遣わしたとありましたので。だから明らかに吉野には届いたのだと思います」
「それじゃあ、誰がこのレプリカを島から運び出したのかな。X氏が忍者であればX氏自信かな」
「それはありえない。なぜならば忍者であるX氏自身で吉野に行くと言うのなら、暗号にした文書やそれを運搬するためのロック機構まで付いた運搬容器は必要ないから。つまりこれほど厳重にしたのは第三者の手を経ても大丈夫なようにするためと言えるのでは」
「うーん。確かに」
「ということは、百万塔はX氏の手元を離れて吉野に行った。とすると、その後、再びX氏の元に舞い戻って、そして40度40秒線が復活して貞永寺か。うーん。なんともかんとも。自然とも不自然とも言い難いよな」
「手元に戻ることはありえると思うんです。日野頼意一行が篠島に出迎えに来たとき、一行のエビデンスとしてこの百万塔のレプリカを北畠顕信なり見せた可能も考えられますので」
「なるほどね。そして、再びX氏の元にか。と言うわけで、もう一度、地名を時間順に並べたとすると」
「X氏が忍者で出身地が伊賀だったとすればですけど、始めが伊賀上神戸」
うん、うんと言う具合に、岩井が読み上げる地名が出るたびに相槌をうち確認した。
「次は元興寺」

「それから篠島」
「伊賀上神戸経由で吉野。ただここは40分40秒線上ではないですけど」

「そして貞永寺」
「最後に甲斐安国寺。もちろんここも40分40秒線上ではないです」

 真顔で智が「いや」と最後の言葉を否定した。紀雄と岩井は驚いて智を見つめた。「最後は山梨県立**博物館でしょ」
 岩井は微笑んだ。一方紀雄は智が冗談を口にした事実に驚いた。

 その後、三人はもう少し談笑を続けた。特に紀雄が見た篠島の話で盛り上がった。取り分け島では信号が少なくフェリーへの乗船のしやすさから原付に乗る人の割合が異常に高いことは岩井の関心を引いた。また、スナメリの話は岩井だけではなく智の興味も何故か引いたようだ。
 レストランを出て徒歩で江ノ電の由比ガ浜駅に向かった時には既に7時を越えていた。岩井は由比ガ浜駅まで須坂父子を送った。帰りの電車の中で紀雄はしみじみと感じた。もう智も一人前だな。また肩の荷が一つ減ったと。


        





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第二部目次 (甲府・ 東山道編)