どこの庇にも氷柱のない朝。暖かい日の始まりであった。懽子内親王は来たときと同様輿に乗って堂々と開善寺を去っていった。鷹鷲はこの内親王をもうこれ以上追う必要はないと思った。一方、黒田党の一人は内親王の行方をさらに追うとて網代傘をかぶり師家に内緒で寺を出て行ってしまった。

 残った客人はと言うと旅立つ様子もなく客殿にいた。時より一人で読経している。よく聞くとそれはこの臨済宗の寺では読経することのない法華経であるのだが。雲水とは異なり高僧は修行するでもなく、暇が多いのであろう。たまに筆を持ち何やら書をしたためている様子。鷹鷲はこの人物が本当に信濃宮であるのか半信半疑で
あった。

 目西は時が立つにつれ修行僧としての雲水と言うものに慣れてきているようであった。坐禅時の瞑想は瞬くに改善され、師家の竹箆を受けることもほとんどなくなった。鷹鷲は相変わらずであったが。そして何より目西が気に入ったのは日々の規則正しい生活である。寺では時刻は正確に開板(かいはん:時刻をしらせるため木版を叩く)で知ることができた。開板担当の雲水は香盤という線香の灰化位置で正確に時を計測する。このように正確に何刻から何刻まで何をするのかが決まっているというのが目西には心地よかった。しかし近々ここを旅立つであろうことを、そして不規則で冒険の日々になるであろうことを目西自身が最も良く分かっていた。つまり客人の出立とともにここを目西達も出る。そしてその時が近づいているのを感じていた。実は、昨日からこの寺では見かけぬ僧が一人投宿している。投宿と言っても目西らとは異なり僧堂に宿泊はしていない。しかるに目西はこの男が宮の護衛あるいはガイド役であると推察した。ガイドが来た以上、宮の出発は近い筈である。 

 案の定、明け方客人は唐突に寺を出た。もちろん、目西の読み通り一昨日から居たガイドの僧と共に。
 投宿の身である鷹鷲、目西及び黒田党の忍びは師家に出立を伝えたが、直ぐには出発を許されなかった。持ち物は既にまとまっており出ようと思えば直ぐ出られるのだが。がそもそも師家の許しなしでは出られないのが規則である。
 旅立ちに当たりひとりずつ師家から公案(問答)を与えられ、師家の気に入った見解(けんげ:公案に対する修行僧の回答)を出さないと出してもらえない。次の見解まで少なくとも半刻は再度坐禅をさせられる。最も早くにこの関門を通過できたのは目西であった。そして次が幸いにも鷹鷲であったのだがその時既に太陽は南中を過ぎていた。二人揃った段階で黒田党の忍びを待つことなく寺を出たことは当然。ちなみに、片割れの一人が無断で寺を去ったことが影響してなのか、可哀想にも黒田党の忍びは翌朝まで出立を許されなかったと言う。

 鷹鷲と目西は客人達の足跡を何とか見つけ出し追跡を開始した。少なくとも鷹鷲の考えに反し足跡の方向は大河原に向かうのとは正反対、つまり遠江あるいは三河へと向かう方向にあった。鷹鷲は益々もって、客人が信濃宮であることが信じられなくなった。遠江か三河の寺の単なる坊主なのでは。このまま目西の言を信じて行動をして良いものなのか疑心が生じた。がしかし、考えようによっては、宮でないならないでそれで良、また見失ってもこのまま遠江へ南下するのであれば、そもそもの目的地である貞永寺に行くだけの事。それこそ本来の仕事を果たすまでと鷹鷲は疑心を捨て置くこととした。ただ、表面とは裏腹に日増しに鷹鷲の内部では目西に対する畏怖と疑心、さらには疲労を増大させていた。それでも貞永寺までである。それまでなら内部に留め辛抱できると思った。
 鷹鷲がそう思った途端である。目西はまず大河原に行き宮が不在であることを大至急確認したいといい始めた。鷹鷲はぐっと感情を堪えた。目西が一旦言い出すとどんな説得も無駄であることを鷹鷲は充分に承知している。それでも一言だけ言った。
「客人を見失ってしまう」
「あな」
目西はさも自信ありげに否定した。やはり無駄である。どのみち鷹鷲には決定権がない。雇い主である北畠顕信からは目西の言に従うようにと厳命されている。忸怩たる気持ちを感じながらも急ぎ大河原に向かうこととしたのである。

 二人は一旦阿智宿まで戻り宿駅にある馬一頭を盗んだ。その昔から阿智宿には馬が他宿より多く置かれていることを鷹鷲は知っていたのだ。馬を操れない目西のために二人乗りをする。馬を走らせながら鷹鷲はふと思った。いっそのことこのまま自分の目の前で乗馬している目西を絞め殺してしまおうか。そうすれば全て解放される。ここで目西を殺したからと言って、誰からも狙われることはないであろうし、別に自分が生きるに何の支障もない。藤林党の伊賀者として雇い主は北畠顕信以外にもいくらでもある。黒田党と組んでも良。しかし悲いかな鷹鷲は決断できない男である。敏腕な忍び。それだけなのである、この男は。
 賢錐宿の手前で馬を捨てた。以前ほどではないが天竜川は未だに雪解けで増水している。小渋川の合流地点のやや上流付近に幸い渡し船が一艘あった。何故渡しがあるのか理由は不明であったが二人は船を勝手に借用し、難なく川を渡ることができた。川を越えるとすぐに香坂高宗の所領で大草郷となる。大草の地名が示すとおりこの辺りには牧が多く、道筋にも厩が点在している。鷹鷲はそんな牧の一つに忍び込み首尾よく馬を一頭また盗んだ。そしてまた、二人乗りで急ぎ大河原を目指した。小渋川伝いに二里上流に進み半刻とたたぬ間に青木川との合流点つまり大河原の手前に着いた。ここら当たりは森が山側に後退し、少し開けている。牧でもあるのか斜面が牧草に覆われている。その牧草地の果てから木々が覆い茂り、急に傾斜が増す。そしてその急斜面はそのまま森林限界を抜け、雪を冠した山頂へと連なる。

 二人は馬を人目につかぬ欅の大木に繋ぎ止めた後、人目を憚りながら大河原に入り込んだ。三寒四温。否、既に二寒五温とでも言うのか。季節は日増しに春めいている。伊奈谷の畳秀山開善寺の辺りでは梅も散り始めていたのだが、この当たりでは所々ではあるが雪が残っていた。標高が高いことや、山々に囲まれ日が暮れるのが早いことに由来するのであろう。
 集落の入り口のやや手前の緩やかな斜面の一角に医王山福徳寺(現在も、医王山福徳寺:大鹿村大河原上蔵)の伽藍が広がる。天台宗の寺である。信濃宮は宗良親王として還俗する前は天台座主尊澄法親王であった故、今この寺は叡山に次ぐほどの権威を得ていることになる。いかにも叡山の山門衆らしき僧兵風情が五、六人で山門を警護していた。
 この地を禅宗雲水の姿で歩くのは危険である。二人は荷物から結袈裟(ゆいげさ;修験者専用の簡略袈裟で三本の細幅帯を肩から下げ各帯には二つずつ計六個の房がついている)、手甲(てこう)、法螺貝を取り出し雲水の着衣の上に直接身につけた。これだけでは本来の修験者の法衣にはほど遠いのだが衆目を誤魔化すには充分であった。錫杖(しゃくじょう)がこれに加われば一段と本物らしくなるのだが。ただ錫杖は長い杖のため忍びの携帯道具にはなかった。
 これだけの僧兵が警護していると言うことは宮がここにいるのではないか。鷹鷲はそう思った。しかし目西ははっきりとここに宮はいないと言った。目西は宮の御座所と言うものを篠島でよく見知っていた。もし宮が御忍びではなく正式にいる御堂があるとすれば、その御堂の正面開扉の内側に御簾がかけられている筈である。また宮が通る道には敷物が敷かれている筈である。この地において宮が御忍びあることなどない。だから必ず宮が居るとすれば形通りのことはする筈である。今、この寺の伽藍の中でそのようなことをしている御堂は一つもなかった。従ってこの寺の伽藍のいずれにも宮は居ないと言える。目西のロジックである。鷹鷲は目西につくづく畏怖を
感じた。
 寺の一角で目西は、螺鈿蓋の箱から丁寧に折りたたまれた半紙を取り出し、大河原の位置を正確に書き込んだ。ただ馬を使用したことで距離感と映像的に写しとった記憶の密度の薄さ故、経路がどの程度正確なのか。それでも西の方角だけは正確に
判った。
 寺を出て集落を越え険しい山の山麓にあたる小高い丘の上にある館に向かった。ここが信濃宮の御座所である。がしかしここでも警護の僧兵はいるが御簾もなければ敷物もなかった。この地にはやはり宮は居ない。目西は確信した。一方、鷹鷲は宮がこの地にいるのかどうか不明であると思った。がしかし目西に従わざるを得なかった。

 二人は急ぎ大河原の入り口に戻り再び馬に乗った。目西の言に従い、件の客人の足跡を素直に追尾するのではなく、いきなり青崩峠を越え遠江は秋葉山まで行くこととしたのである。

* * *

 三尺坊大権現(江戸時代以前秋葉神社の祭神)の幟が随所で見受けられる。件の客人はいつの間にか御供の者三名を引き連れていた。そして紫袈裟のまま上社は秋葉山(静岡県浜松市)を登っていた。秋葉山は伊奈谷の山々の主峰赤石岳より連なる赤石山脈の南端の山である。
 秋葉山の山頂には秋葉寺(現在は山頂に神社、山麓に寺)があり、そこからは遥か遠方に遠州灘が遮る物なく見渡せる。霞みのなかの大洋はこの世のものとは思えない。本当にあの海に再度辿り着けるのであろうか。 あの日、延元三年(1338年)九月のあの日。嵐がなければ我らはもっと有利であったのかもしれない。自分も今ここでこうしていることはなかった筈である。あの日以来、如何に努力をしても勢力は挽回できず、まるで悪夢でも見ているようである。特段、自分が帝位に着こうとは思わない。がもし本当に左兵衛督と組めば少なくとも北朝を廃朝できるかもしれない。はたまたこれもまた浅はかな夢なのか。秋葉寺の鐘楼の音が突然響き渡った。

     夢の世に かさねて夢を 見せじとや 
                 尾上の鐘の おどろかすらん
 <李花集>
(夢の世に重ねて夢を見せまいと、山の上の鐘が目を覚ましてくれたのだろうか)

* * *

 目西と鷹鷲は青崩峠を馬で越え、客人よりも先に秋葉に入ることに成功していた。そして目西の予測通りなのだが、客人は秋葉山に詣でた。
 鷹鷲は、もし件の客人が信濃宮であれば井伊谷あるいは引佐に向かうのではないかと考えた。しかし、目西は、あな。信濃宮であればむしろそれを避け東海道は駿河に向かうのではないかと言う。鷹鷲には客人の行く先など掴めなかった。ここから東海道は一日で出られる。遠江国金剛山貞永寺までも一日の行程。鷹鷲は客人の向かう先がどうであれまずは貞永寺に落ち着こうと強く提案した。一方、目西はこのまま客人を追うことを主張。もしここで見失ったら折角の労苦が無駄になると言うのが主たる理由。果たして本当か。目西はある程度もう行き先を掴んでいるのではないか。そこで鷹鷲は心理線に出た。自分には定かならぬが、目西は既に客人の行き先を読んでいる筈。だとすれば、その点をそれとなく目西に主張すれば目西は引き下がるのでは。
 鷹鷲の老獪な戦術は功を奏したと言える。目西は自身の理屈の完全性に自信を持っている。ただし目西の性質上、通常人が抱く自惚れとは異なるのだが。目西の言によれば、客人つまり信濃宮は遠江を経由して駿河に向かうと言う。理由は至極単純で、秋葉を出て東海道に向かった場合、宮であれば陸路、西に向かう必然性がないからであると言う。非常に珍しいことではあるが目西は折れて鷹鷲の貞永寺行きの案に同意した。 

 客人の秋葉山出立を待つことなく、二人は出発した。天竜川を南下しあくる日には遠江の国の諸国寺塔毎国各一所の寺、金剛山貞永寺に着いた。
 目西は百万塔の中に夢想疎石から南溟和尚に宛てた書状を持参していた。修行僧つまり雲水の姿に戻った二人ではあったが、その書状の効果か、修行僧の扱いを受けずに方丈に通された。そこで目西は再び、螺鈿蓋の箱から丁寧に折りたたまれた半紙を取り出し、ここの位置を正確に書き込んだ。また別の何枚かの半紙に書き記された様々な場所とこことの位置関係を綿密に見比べて目西は得心した。この地は稀有に良い場所であることを。この寺なら住めると。

 この地は大河原の寸分違わぬ真南に当たり、かつ篠島の寸分違わぬ真東に当たる。また、それはかつて過ごした元興寺からみても、故郷の伊賀神部から見ても寸分違わぬ真東に当たることを意味している。


        
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第二部目次 (甲府・ 東山道編)

    
  

    
  
  
  

  

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