名鉄の名古屋駅は地元の者以外には分かりにくい。上下線とも名古屋駅を中心に四方八方へと分岐していく。その全ての行き先の列車が同じ二組のレールから出発するのだから。合理的とも言えるが、行き先ごとに乗車位置で分けているとは言え、慣れない紀雄には分かりにくかった。それでも事前に半田に本社のある酢造メーカーの人から名鉄名古屋駅での半田方面への特急の乗車方法を教えてもらっていたので、まだしもである。特急に乗車するにはμ(ミュー)チケットという特急券を購入する必要がある。さらにホームも各駅や急行列車とは異なり中央のホームから乗る。特急にはパノラマカーと中部国際空港専用のセントレア号がある。知多半島の先の篠島にいくには終点の河和まで特急パノラマカーでいき、そこから路線バスに乗り換え師崎にいき20分に1本もの頻度で就航している高速船に乗る。約15分程度の短い船旅である。実はその便の半数は篠島の隣にある日間賀島(ひまがしま)経由での篠島行きで、残りが篠島経由日間賀島行きである。これらの高速船の他にも一時間に一本程度ではあるが小さなフェリーが運行している。さらにこの航路とは別に河和港からも日間賀島、篠島に向けて高速船が運行している。その上さらに海上タクシーという高速船もある。随分本数があるため島とは言え本土となんら変わらぬ生活が送れるのであろうと紀雄は思っていた。河和からは船で小一時間ほど。この航路、途中50%の確率でイルカの一種であるスナメリに遭遇できると船会社のホームページに出ていた。ただイルカと異なりスナメリには背びれがないため発見するのは難しいらしいが。紀雄はこのスナメリと言う生き物を海で見てみたいと強く思った。だが、まずは師崎にいく。そこにある幡豆神社に行かねばいけない。幡豆神社のウバメガシの叢林を見なくては。百万塔レプリカの内文書が篠島を意味していることがほぼ確実である以上、百万塔レプリカも篠島あるいはその周辺で作られた可能性が極めて高い。そしてウバメガシの相輪部は、あくまで推論ではあるが、幡豆神社の叢林のものである可能性が極めて高いのだから。無論、塔身本体の檜はどこのものか、伐採年代が合わない理由は何故かなど、リストに挙げられた謎は未だたくさんある。だが兎に角、往きは幡豆神社経由で篠島へ、その代わり帰りは河和まで船で行く、紀雄はそう心中で計画した。

幡豆神社のウバメガシの叢林は、思っているより遥かに明るかった。枝の間を通して春の日差しが強い。神社の境内の叢林と言うと鬱蒼としたものを想像するが、ここのものは風通しも日通しもよく、高さの低い枝のトンネルが小道上にできていた。こんな細幹であのような百万塔の相輪部が造れるのだろうか。ここのウバメガシが誰かの手で伐採され本当に相輪部に使われたのだろうか。ただ歩いてそこを通りぬけると、推論が不思議なものに思われてくる。どのみち700年前は今とはかなり異なった景色であったのであろう。実は紀雄は後で知ったのだが、昭和36年(1961年)の伊勢湾台風でウバメガシの巨木、古木の多くが甚大な被害を受けてしまったのである。それ以前はここ幡豆神社の叢林はウバメガシの巨木に覆われていて鬱蒼としていたと言う。
 これと言った樹木に関する知識があるわけでもなし。また、特にこの地域に詳しいわけでもない。さらに、紀雄は性格上、見ず知らずの人に話しかけて何かを尋ねることをとても億劫としている。結局、ウバメガシの林を見たのだが。ここがあの百万塔の相輪部のウバメガシかどうか実際に見ても全く手がかりすら掴めなかった。

神社は岬の小高い丘の上にあり、神社から丘の突端部分にまで繋がっていた。突端部分を下ると立派な立体駐車上がある。実は突端部分に随分古そうな展望台が立っている。紀雄は展望台に昇ってみた。そこからの海の眺めはすばらしかった。多くの大型船が洋上に見える。LNG船、タンカー、自動車運搬船、コンテナー船、数えればきりがないほど多くの船が見えるが。広大な海の中にあっては小さくて極まばらに見えてしまうが実は無数にいる。また渥美半島が良く見える。篠島、日間賀島は目と鼻の先に見えている。どうしてこれほど近くにありながらわざわざ密書を送り助けを請わなければならなかったのか紀雄には疑問に感じられた。上から見下ろした場合と、海外線に立って眺めた場合では確かに、上から見たほうが距離感がなくなるからであろうか。少し春霞に霞んで遠方に神島が見える。あれが神島か。三島由紀夫の純愛小説の舞台。大昔に紀雄は読んだ。むしろ神島ぐらい離れていれば、助けなしでは脱出できないであろうに。そんなことを考えながら丘を下り高速船乗り場へと向かった。

*   * *

島に上陸すると直ぐに、本土との大きな違いに気がつく。さっきまでは、島と知多とを結ぶ船便の本数から考えて、島とは言え本土となんら変わらぬ生活が展開されていると思い込んでいただけに、その違いは新鮮な発見であった。それは多分交通である。交通システムが異なるとまるで文化圏が違って見えるのであろうか。右側通行、左側通行の差などないはずだが。紀雄は一種のカルチャーショックを覚えた。それはバイクである。島の主要交通機関はバイクなのである。ほとんどが所謂原付である。皆、道の中央を走る。といっても小さな島である。道幅が狭いから仕方がないのかもしれない。何が違うかといえば、自動車と比べたときの相対的な台数もそうなのだが、誰もヘルメットを着用していないし、また当たり前のように小さな原付に二人乗りしている。自動車も軽トラックばかりで他の車種がない。多分合理的であるからであろう。少し距離を歩けば、全く信号がないことにも気がつく。建っている家の数からすれば当然、信号機がもっとあってしかるべきなのに。自動車がほとんどないから信号が不要なのであろうか。実は隣の日間賀島では人口当たりのバイク保有台数が全国一位であるそうだ。というのも、道の細い島内の移動に便利である点、ガソリンスタンドが少数しかなく燃費のよいバイクが有利である点、そしてフェリー代が車より安い点。つまり知多へフェリーで行きバイクで、極端に言えば半田やさらには名古屋まででて買い物をして帰ってくることができる。島のインフラがバイク文化を進化させたのか。
 春休みとは言え平日。観光客や釣り人もほとんどいないのであろう。島はのどかというよりは物寂しい感じがした。
 紀雄は下船してから、島の地図を見ながらまず帝井に向かった。結構な距離である。ふぐ料理で島は有名だが、果たしてこの漁港で水揚げされたものなのであろうか。あまり大きくはない漁港を通り過ぎ、島の商店街から丘に登る。そういえば隣の日間賀島ではふぐではなく蛸が名物とのこと。島というのは近くても孤立しているがためか決して同じ文化にはならないのであろうか。丘の中腹に保育園が併設された医徳院という寺がある。篠島をホームページで調べたときこの医徳院の歴史の古さに感心した覚えがある。当然、義良親王もまた岩井さんのメールにあった北畠顕信も、この寺には来たのであろうと紀雄は推測した。寺門を前にして細い路地を左に折れてやや下った所に帝井があった。
 井戸というとつい手動式のポンプが付いているものを連想するが、帝井にはポンプも何もない。井戸は単なる水溜りのように見えた。水面には落ち葉が幾つか浮いていた。観光のためかあるいは雨除けか定かではないが井戸の四隅に柱があり上部は瓦の屋根で覆われていた。さらに井戸の手前には腰高の策とアルミ製の門があり井戸の水を触ることはできない。小さな案内板がなければこれが名所であるなどと到底思えなかった。水はきれいそうには見えない。覗き込んで見ても底石は見えなかった。愛知用水がこの島までで繋がるまではこの井戸は現役であったというのだが、今本当に湧いているかどうかすらわからない。狭い道の反対側の側溝の枡には、多分洗剤を多く含んでいるのであろう、あわ立った汚水が流れていた。紀雄が想像していたものとまるで違う。しかしこれが事実であり紀雄は事実に納得した。ただ、このあまりの現実に、親王のために掘り当てた井戸であるというのが伝説に過ぎないのではとすら思えたのだが。
 紀雄は帝井を後にして、用材がいかにも新しく風格のない八王子社と神明社、さらに義良親王の御座所があったと言われる場所にある聖跡碑を巡った。どこを見て回ろうと何も謎を解く鍵には当たらなかった。そして最後に親王が漂着した神風ヶ浜(伊勢ヶ浜)という砂浜にでた。夏は海水浴客で賑わうらしい。愛知県下の海水浴場ではここが最も水質が良いとのこと。

 明け透けで明るく風通しの良いウバメガシの叢林、ありきたりの保育園を併設した医徳院、真実か伝説か定かならぬ帝井、妙に用材が新しく風格の欠けた神社、そして普通のこの浜。七百年もの時を隔ててはすぐ見てわかるような証拠など所詮期待するのが間違っているのか。そもそも何ゆえに自分が山梨県立**博物館の購入した物品の謎解きのために今、ここにいるのであろう。
 紀雄は一人さびしく砂浜の波打ち際に立ち海を見つめた。潮騒を聞きながら海を見て心に思い浮かぶことは、謎ときのことなどではなく結局、芳子と智のことだけであった。もし智が普通の子であったら。何年もの間、このWhat if に苦しめられてきた。さあ、もう帰ろう。智のことを浮かべると考えが巡り他に何も思いつかなくなるのだから。
 帰りも結局、紀雄は河和行きではなく師崎行きに乗った。頭からはとっくにスナメリのことなど消えていた。 

中央線の特急しなのを待つ間、名古屋駅の無線LANスポットでもう一度、紀雄は今日尋ねて歩いた場所を調べてみた。ウバメガシの叢林は伊勢湾台風で甚大な被害を受けるまでは鬱蒼としていたことをこの時に見たホームページで知った。だとすれば、当然、相輪部を作るにたる太い用材が取れたことが推測される。八王子社、神明社に関しても調べた。そこで次のようなことが書かれているサイトを発見した。

伊勢神宮の二十年に一回行われる式年遷宮でそれまで社に使われていた用材が篠島の八王子社と神明社にお下がりとして移築され神宮の翌年に篠島としての「御遷宮」が行われる

「妙に用材が新しく風格の欠けた神社」であると感じたのはそのためであったかと納得し紀雄はパソコンを閉じた。

特急しなので中津川を過ぎたころには日が暮れていた。長野県に入り上松付近を走っていた。上松は木曾檜で有名である。無論、頻繁にこの特急を使う紀雄はそのことを良く知っていた。ここの木曾檜が伊勢神宮の式年遷宮で用いられることも知っていた。紀雄の頭の中でいくつかの言葉がこの瞬間に結合された。伊勢神宮、式年遷宮、篠島の神社の用材は伊勢神宮のおさがり、檜製の塔身部、相輪部との伐採年の違い。紀雄は再びノートパソコンを開け岩井と智宛にメールを書き始めた。

送信者:   <n-suzaka@joetsu***.ac.jp>
宛先:    ”岩井美佐子”<m-iwai@hmuseum.pref.yamanashi.jp>

送信日時:   20**32719:38
件名:    塔身部の檜の件 

岩井様

 お世話になっております。上越**大学の須坂です。

 さて、実は今日、一人で篠島を巡って見ました。帝井がどうしも見てみたくなりました故。しかし、残念ながら島では謎解きに繋がる大きな収穫はありませんでした。ただ、島にある神社の用材に年代をさほど感じさせない新しさがあり、気になってホームページで調べてみました。その結果、以下の仮説を立てました。ご参考にして下さい。 

 篠島にある神社(神明社、八王子社)はともに、伊勢神宮が20年に一度の式年遷宮をした翌年に、伊勢神宮で不要になった用材を用いて立替が行われてきたようです。伊勢神宮の用材は木曾の檜が用いられます。従って当然、篠島の神社も檜です。島には檜が自生していませんので、もし塔身部も島で作成されたとすれば、島の神社が建て替えられた時に出た廃材を利用したのではないかと考えられます。

 この仮説では少なくとも檜が伐採されてから20年間は伊勢神宮に用いられ、その後、20年間は島の神社で用いられますので、伐採から最低40年間経過されていることが類推できます。

須坂

 

紀雄はメールを送信し終え妙な充実感に浸り、終点の長野まで寝た。そして高田には終電で帰った。


        
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