第一部目次 (上越高田  篠島編)



    
 
   


    

   
   
    

 延元三年(1338年)九月。伊勢国度会郡篠島。台風一過の晴天であった。目西はいつになく、伊勢ケ浜の北端に位置する岩の上から真南の方向を見つめていた。そもそも、普段、何処にいても正確に西の方角を見つめているので、いつしか目西と呼ばれるようになったのだから、その目西が南を静かに見つめているのは珍しい。はるか沖には渥美半島の伊良湖岬が見えている。真夏も終わりに近いのか、早朝からツクツクボウシが鳴いている。
 伊勢国度会郡篠島は現在の愛知県南知多町篠島のこと。奈良時代は三河国幡豆郡篠島、鎌倉時代は志摩国答志郡篠島、慶長以降に尾張国知多郡となった。知多半島の先端、師崎から南に4キロメートルに位置する。たかだか4キロメートルと思うかもしれないが、一般人が泳ぎきることは到底できない。また、島と言っても小さな島である。北東から南西に伸びた周囲6キロメートルほどの島だ。島内にはいくつかの丘があるが、島中央部にある最も高い丘でも海抜48メートルと低い。島には水源となる池も川もなく、井戸はどれも海ほどではないにせよ塩分を含む。従って主要な飲料水は雨水をためた天水と言われるものである。
 目西は、南から浜に接近する一隻の大型船を見つめていた。大型船といっても現在のもとは比べ物にならないぐらいぐらいの小さな木造の帆船である。しかし帆は破れ、また誰一人として船を制御するものもなく、明らかに流されて浜に接近中であることが目西にはわかった。またそれはいずれ座礁するであろうことも。接近するに従いそれが大型漁船でも大型商船でもなくむろん島の船でもなく、軍船であることも目西にはわかった。さらに軍船にもかかわらず華美な装飾が施されていることに気がついいた。錦の御旗がたなびいているわけでもない。でもそれは親王クラスが乗船する御座船であることが分かる。ここで通常の民であれば狼狽して大騒ぎを起こす所である。戦で鍛え抜かれた武人や領主とて船団の中に親王の御座船があることが分かれば、慌てふためくところである。しかし目西は無頓着である。武人でもなし、領主でもなし、肝が据わっているわけでもない。彼は変わっているのだ。とうに元服を済ませているはずの年であるのだが、髪は結っていない。顔には無精髭が伸びきっている。でもその顔を良く見れば未だ幼さが感じられる。年齢不詳であるが二十歳には達しないことが分かる。
 目西は好んで自分からしゃべり始めることは絶対にしない。会話は必要なことのみしかしない。つまるところ性質奇怪なのである。物に拘る事があり他人から敬遠されることが多い。他人が目西に少し触れただけでも癇癪をおこすこともある。

 目西は岩から島長である篠島太夫の館に戻り、ボソッと島長に、御座船が浜に打ち上げられることを伝えた。初め島長は本気にせず、笑顔で目西の肩を二回ぽんぽんと叩いた。すぐに島長は重大な間違いに気がついた。目西がきーと叫び癇癪を起こす。しかし目西は島長を睨みつけるだけである。いつもとは何かが違う。島長は不気味な予感に寒気がした。
 実は目西は島長と同じ館に住んでいる。住んでいると言うより匿われていると言うほうが妥当であろう。島長の館と行っても木造平屋で屋根は瓦葺きではない。また床も畳ではなく板敷きである。石の基礎がある分だけ掘建ての他の民家よりましと言った程度のものである。というのも、かつて源平時代一時的ではあるが信州の宝賀秋季がここに砦を築き伊勢湾、三河湾の海人を従え水軍を組織したことがあった。その砦の一部分がこの館の前身だからこそまともな石基礎がある。
 この島長、うだつの上がらぬ人物である。白髪交じりの目じりの下がったこの人物からは、彼が実はかつて伊勢湾に覇を唱えた海人属の末裔であることなど想像もつかない。知多の羽豆岬に居城を構える熱田大宮司家千秋昌能の配下の武家にすら頭が上がらないのである。
 真顔に戻り島長が目西に再度真偽のほどを確認したところ、目西は何も言わずに南の海を指差し暫く南を見つめた後、島長をまた睨んだ。普段、人と目を合すことを絶対にしない目西が島長の目を二度も見た。さらに西ではなく南を見つめた。島長はこれはもしかすると本当かも知れないと思い館を出て浜に自ら確認しに赴いた。

 島長の狼狽たるや尋常ならぬものがあった。御座舟がまさに浜に座礁する寸前であり、到底、自分では判断のできぬ事態である。そこで島長は島の神社、神域の全てを統括している神職二見貞友(ふたみさだとも)の元に走り相談した。二見貞友は伊勢神宮の神主だったことのある男で島長より一回り若い。自称では伊勢神宮の権禰宜(ごんのねぎ)だったそうである。実はこの篠島と伊勢神宮とはいにしえの太古より伝わる「おんべ鯛」と呼ばれる儀式を通じ深い繋がりがある。おんべ鯛とは伊勢神宮の三大祭、つまり、六月の月次祭(つきなめさい)、十月の神嘗祭(かんなめさい)、十二月月次祭にあわせて、年に三度伊勢神宮へ御贄(みにえ)である干鯛(ひだい)を奉納する儀式のことで、樽で塩漬けに調整された干鯛百三十四尾を煌びやかに飾り立てた船団に伊勢神宮から下賜された太一御用の御幟を仕立てて伊勢神宮へ献上する儀式のことである。そのため鯛を調整する島の北端に位置する中島は伊勢神宮の直轄地であり、伊勢神宮御贄干鯛調製所と呼ばれ、二見貞友が儀式や干鯛調整を含めこれらを管理していた。干鯛調整は伊勢二見の御塩(みしお)のみを使い樽付けした後、天日にさらすかなり骨の折れる仕事である。神職ではない人間がみだりに御贄に触れてはならぬことは当然である。しかし実際は島長や時には目西ですら海で禊(みそぎ)をすませた後、手伝うことがあった。
 また島と伊勢神宮の繋がりはこの他にもある。伊勢神宮の二十年に一回行われる式年遷宮でそれまで社に使われていた用材が篠島の八王子社と神明社にお下がりとして移築され、神宮の翌年に篠島としての「御遷宮」が行われる。この儀式の司もむろん二見貞友が務める。務めるというよりも前回の正中二年(1325)の第三十四回の外宮式年遷宮の際にこれが目的で用材と伴に二見貞友はこの島に来た。以来十三年。という訳で島での最高権力者は、実際は長ではなく神職の二見であった。島で瓦屋根のある建物はこの二見貞友の館と、島の中央西側にある丘の斜面に建つ医徳院本堂の屋根だけであった。医徳院も実のところ、建暦年間(鎌倉時代初期)、知多大井の医王寺の一坊を移したものであるために幸い瓦が付随してきたのである。この二見の館、実のところ、島長の館の隣にあり宝賀秋季の砦館そのものなのだ。この館には幾つかの貴重な文物と武具があった。

 相談を受けた二見が始めに気にかけたのは、多分島で最も立派な自分の館を親王とその一行の公卿連中に明渡しそこを御座所となし自分は当分別の粗末な所に住まうはめになるであろうことである。そしてまた二見が案じたことは、火と水である。彼は伊勢神宮にいたころ、毎日朝夕に日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)という天照大神の食事を用意する仕事に携わっていた。もし親王であれば、それは天照大神の子孫。二見は公卿やまして皇族の日常生活、はたまた御行幸時のもてなし作法など知るはずもなく、天照大神の子孫として神と同様の日別朝夕大御饌をすることぐらいしか思いつかなかった。その場合、やはり火と水が問題となる。その時、神職の頭に火や水を用いない食事がなくもないと一瞬閃いた。それはこの篠島に伝説として伝わると佐米楚割(さめのそわり)という物である。早い話が鮫の干物。しかもこの佐米楚割はその昔、御贄(みにえ)として朝廷に貢上していたもの。しかし、今、鮫を捕らえそれを干物にする手間暇はあり得ない。だとすると結局、火と水を何とかしなければならない。
 食事を作るための火は忌火(いみび)を用いなくては成らない。忌火とは木と木の摩擦で起こした火で、いわゆる縄文、弥生時代の火越しと同じ手法であり極端に労力を要する。普通どこの家庭でも火越しなどせず種火を持っているが、この島の種火は神職としての二見が考え得る最も穢れた火であった。というのも本土とは異なり森林資源の限られた島では炭はあまり多用されない。炭は知多や伊勢、時として三河からの輸入品で貴重なこともあり、普通種火をともしておく燃料はスナメリの油そのものか、その油を固めた蝋燭であるのだ。スナメリとは島周辺の三河湾や伊勢湾に生息している背びれのない沿岸性のイルカのことである。穢れた動物の死体から採取した物にともされた火である。このように穢れた火を用いて親王や公卿の食事を準備するわけにはいかないと考えた。
 水は火よりも深刻な問題であった。火は労力だけの問題だが水は如何ともし難い。親王に特にこの季節ボウフラがわいた天水を出すわけにいかない。島民は天水を濾して不純物を取り除いた上、塩分を含んだ井戸水とブレンドして使う。大雨がふれば天水は新鮮になるし、時には医徳院の浦にある島で最も高い丘にいく筋かの清らかな流れができる。昨日こそ台風で雨がふったが今日にはもうその流れはない。早急に清い水が必要なのだが。

 神職も島長も途方にくれつつ、伊勢が浜へ御出迎えに向かった。目西が言った通り漂着したのは正に親王一行であった。一行は思いのほか疲労していないようである。聞けば昨日の嵐までは順風であったと言う。それから夜間に暴風雨に見回れ数時間、その後漂流し幸いにも夜明けとともにこの島が見え自然にここに流れ着いたらしい。従って思いのほか疲労していない。

 親王は未だ子供である。元服したてであろう。神職は深々と頭(こうべ)を垂れ決して親王を見つめない。島長もこれを見習う。親王との直接の会話は一切ない。代わりにこの熱さにもかかわらずただ一人甲冑を纏った武人らしき若者が一行を代表し挨拶を交わし、彼らに昨夜から今朝までの漂流の話をした。この際、若者は自らを鎮守府将軍北畠顕信(あきのぶ)と名乗った。この人物、鎮守府将軍ではあるが歳は二十歳ぐらいであろうか。今般、陸奥太守義良(のりよし)親王を奉じての東国平定の勅命を帝(後醍醐天皇)から賜り、東国に向かう途中での遭難とのこと。島長も神職も深々と頭を垂れたままで話を聞いており、また蝉の声にかき消されてであろうか。顕信と申す将軍に後ろにいる人物は誰かと問われるまで直ぐ背後に目西が来ていることに気がつかなかった。目西は頭を垂れることもなくただ西の方を向いている。これはいかにも無礼である。将軍がやや怒りを込めて問うたのはそのためであろう。若い一行とは言え親王と将軍である。島長は畏敬の念を込めつつ目西の特異な性格を説明し無礼を謝罪した。そして浜で長々と話すわけにもいかず、島長は御座所が整うまでの間ということで一行を医徳院まで案内した。

 昼前までに島中に噂が広まった。医徳院の周囲は甲冑こそ付けていないが刀を携えた武士が警護している。島民のほとんどは親王、公卿は言うに及ばず武士を見るのが初めてである。医徳院の本堂の中に入って親王を見るなど警護の武人にはばまれむろんできないが、武士だけでも見ようと大勢の島民が医徳院周辺に集まった。それは、バッキンガム宮殿で女王をみずに衛視の姿を見る観光客のようなものだ。

 目西が眼前にいるが、無視して島長と神職は屋敷で相談を重ねた。その結果、親王の御座所は神職二見貞友の館とし、警護の近衛兵も同館に居留させる。将軍及び高官二名は島長の屋敷に居留し、他の武士は医徳院、船の漕ぎ手は有力島民の家に居留と取り決めた。そして火は神職自ら毎朝夕に禊をし、忌火を起こすこととした。しかし、やはり水をどうしたらよいのかは妙案が無かった。しばらくして突然、目西が「清水は島に有り」と呟きその場をさっていった。神職も島長も驚いたが本気にはせず、目西が出て行くのを見つめていた。とそのとき、二見は御神酒を思い出した。水の代わり当分御神酒を使うと言うのだ。八王子社にも神明社にも幸い祭儀用に伊勢から調達した百升程度の御神酒の在庫がある。ただ問題は、義良親王は未だ酒を嗜む年齢ではないこと。下手に酔わせてしまうと何が起こるか分からないこと。しかし、島長も神職もこの際やむを得まいとて、親王一行には水の代わり御神酒を出すことで合意し
た。
 さっそく神職と島長は医徳院に赴き北畠顕信と有力島民と医徳院の方丈を含め会合し、彼らの協力の下、御座所造りに取り掛かった。座礁した御座船から親王の座する畳をはじめ、御物を持ち出し、神職の屋敷に移設した。一連の作業はその日の夕刻までには終わり、辺りが暗くなる前までに、親王は新たな神職の屋敷を改良した御座所に御入りになられた。
 その後、神職は禊をし、幼い親王のための日別朝夕大御饌の準備を始めた。

 かくして、北畠顕信と義良親王の篠島滞在が始まった。


       


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